突然ですが、なぜ『名刺』という言葉は「名前を書いた紙を渡す=名紙」ではなく、名前を「刺して」いるのでしょうか?その成り立ちには、実は世界的な歴史や深い意味があったりするのです。
そこで、ちょっとした「名刺」についての歴史をご紹介。名刺交換会やビジネスパーティーなどのやり取りの際、さりげない話のネタとして利用されてもいいですし、話が一辺倒になりがちなマナー研修の閑話休題にも利用できるかもしれませんよ。
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事の起こりは3000年の歴史から
現在、広く利用されているカードタイプの「名刺」はヨーロッパから日本に伝達されてきたものですが、その大本を辿るとお隣の国「中国」が名刺文化の発祥になります。それはどんな風に始まったのでしょうか。
最初の名刺はプロポーズがきっかけ?
名刺発祥の由来には諸説ありますが、中でも多くの方が認識しているエピソードが「劉邦(りゅうほう)説」です。劉邦とはご存じの方も多いかと思いますが、紀元前206年から始まった中国の王朝「前漢」時代の初代皇帝です。秦の時代を打ち破った項羽(こうう)とセットで語られることの多い劉邦ですが、農民出身ながらたった一代で中国全土の皇帝にまでのし上った人物として有名ですよね。そんな劉邦が「名刺」を作ったというのはどういうことでしょう。
結論としては劉邦が名刺を作ったわけではなく、名刺を利用した劉邦のエピソードが有名になったという。その内容も、ある意味、詐欺に近いものがあるのですが・・・。かいつまんで説明をすると、或る御偉いさんの宴会の席で、劉邦は上座に座るため「祝儀、一万銭也(お祝い金、いっぱい差し上げます)」と書いた竹簡を渡します。御偉いさんの周りの人は劉邦が貧乏人なのを知っているので、「御偉いさん、そんなのは嘘ですよ」と説得をするのですが、御偉いさんは聞く耳を持たずに劉邦を上座に座らせてしまう。挙句の果てには娘婿にまで迎え入れてしまうという。
中国の歴史書『史記』に記されているこのエピソードが、世界で初めて「名刺」というアイテムが出てきたものになります。従って、この詐称というか戦略というか、いずれにしても劉邦のでっち上げ作戦が有名となり、「名刺」エピソードに使われるようになったのです。また、上座に座るのは御偉いさんの娘さんに会いたかったらという理由もあるみたいなので、世界最初の「名刺」はプロポーズ、もしくはナンパが動機だったのかもしれません。
大昔のメールや報告書のことを「刺」もしくは「謁」と呼ぶ
今から2000年以上前の中国では、まだ紙の文化がなかったので、文字を書いたりする媒体は「木簡」や「竹簡」と呼ばれる木や竹を細く切った短冊状のものでした。そして、劉邦が御偉いさんに送った竹簡のことを「刺(さし)」と言います。今でいうメールや手紙のことを言うのですが、この「刺」が「名刺」の語源になります。そのため「紙」ではなく「刺」というわけです。
「刺」は訪問して不在だった時などに、家の前に置かれた箱に入れておくものだったようです。今でいう不在通知のようなもの。「この時間はいないってメールしたのに、なんで来るかなぁ・・・」と昔の人も「刺」を見たらボヤいていたのかもしれません。
また、目下の人が目上の人に拝謁をお願いする竹簡などを「謁(えつ)」と呼びます。形状は「刺」より少し大きくなり、竹簡や木簡の上部真ん中に「謁」と記すのが習わしだったようです。もし、劉邦がこの「謁」を使用していたなら、「名刺」ではなく「名謁」と呼ばれていたのかもしれません。
ここで「名謁(みょうえつ)」という言葉について少しだけ説明をします。意味は書いて字の如く「名乗って謁する」こと。もしくは「名乗り合う」ことです。これって、ほとんど「名刺」のやり取りのことですよね。名刺交換で使用するアイテムは「刺」になりますが、その行為は「謁」になる。そのように考えると、なにげない名刺交換の場が、少しだけ特別なものに感じられますね。
ちなみに「竹簡」ってどういうもの?と気になる方は下記の動画をご覧ください。
ヨーロッパはやっぱりオシャレな国
「名刺」の発祥が、紀元前からある中国の高度なコミュニケーション文化にあったことがわかりましたが、地続きになっているヨーロッパも負けてはいません。現代に通じるカードタイプの「名刺」文化を見てみましょう。
「名刺」は社交界での必需品
ヨーロッパで「名刺」が広く利用され始めたのは、中国の秦の時代から1600年ほど経ってからでした。それだけ時も経つと、木や竹の短冊ではなく、もちろん「紙」が使われます。利用方法も、相手が不在の時にポストや玄関先に置いておくものでしたので、不在通知的なところは変わりません。
そんな「わたしが来ましたよ」というメッセージカードが、現代の「わたしはこういう者ですよ」に変じたのは、さらに100年から200年ほど時代が進んだヨーロッパでの「社交界」でのこと。王族や貴族たちが集まる場で、自己紹介のツールとして「名刺」がやっと使われ始めたのです。こうして社交界が現代の名刺交換のルーツと捉えると、そのマナーであったりエチケットであったりが細かく問われるのも納得ですよね。
当時の社交界では、トランプの裏側に自分の名前を書いたり、銅版画で図柄を入れてみたりといった華やかなものが主流だったようです。銅版画で作る図柄は今のデザイン名刺に近いものがありますが、トランプの裏にサインをするなんて、ちょっとマネしてみたくなる粋な所作ですよね。手品でも始めるの?なんて勘違いをされてしまうかもしれませんが・・・。
写真入り名刺が大流行!
時も19世紀になると写真技術が発達し、手軽に現像ができるようになります。しかし、そのような高度な技術を楽しめるのは特権階級の限られた人々だけでした。
1854年、フランスの写真家アンドレ・ディスデリがマルチレンズを用いていっぺんに10枚の写真を撮影する技術を発明し、特許を取得しました。中産階級にも評判になったディスデリのスタジオに、ある日、ナポレオン3世が訪れます。彼は写真撮影をすると、その写真を仲間たちに配り、イタリアへと進軍していきます。
このナポレオン3世が配った写真名刺が大評判となり、ヨーロッパでは空前の写真名刺ブームが巻き起こります。ひと昔前でいうブロマイドのようなものになるのですが、家族や友人知人はもちろん、著名な芸術家や政治家、歌手や役者などの写真名刺をコレクションしていくことが人々のステイタスになっていくのです。この時の写真名刺のサイズが、胸ポケットに収まりやすいサイズということで、今現在スタンダードとして使われている91×55mmの元になったと言われています。
海の向こうと関係していくことで「名刺」が発展した日本
竹簡や写真入りの名刺などが文化として定着していく世界の中で、ここ日本での名刺の歴史というのは、どんな変貌を遂げていったのでしょうか。
あの坂本龍馬も「名刺」を使っていた?
ヨーロッパで写真名刺が大流行していた頃、ここ日本では、和紙に手書きしたものを不在宅に置いておくという風習があったようです。まだまだ不在通知的なものではありますが、媒体が和紙に筆でささっと書いたものというのは、それはそれで粋な風習ですよね。家に帰って玄関ドアを見てみたら、半紙に筆で「〇〇見参」なんて貼り出されていた日には、ちょっとドキッとしてしまいますが・・・。
その後、幕末になると、外国人と接する役人が「名刺」を使うようになります。これはどちらかというと、向こうの風習に合わせたような形ではありますが、ジョン万次郎や福沢諭吉、勝海舟などの名刺が今でも残っていたら面白いですよね。日本初の株式会社「海援隊」の社長である坂本龍馬も、海外との取引で名刺を使っていた可能性が十分にありそうです。
日本独自の名刺文化が花開いていく
外国人向けに作られた名刺には、だいたい「家紋」を刻印したものが多かったようです。海外ではシンプルにサインを書いて渡すだけのものが多い中で、「家紋」を入れるというのが日本ならではの風習。こちらも、ちょっと格があっていい感じの名刺になりそうですよね。
時は過ぎ、明治の時代になると鹿鳴館での外交対応でも名刺が利用されるようになります。舞踏会などの華やかな世界とは裏腹に、実際は慣れない西欧文化に当時の人々は試行錯誤をしていたようですが、もしかしたら、その中の一つが名刺の受け渡しだったのかもしれません。
明治から始まった名刺としては、京都の舞妓さんが使用されている「花名刺」も古い歴史を擁するものです。着物の図案家である松村翠鳳(まつむらすいほう)が、舞妓さん用に版木を使って一枚一枚手刷りで制作されたものですが、こちらは現代でも使われている日本独自の「名刺」になります。
まとめ
竹簡から始まり、写真名刺に花名刺と時代と共に移り変わり、今ではスマホ同士をかざすだけで名刺交換ができるデジタル名刺なるものも出始めています。最新式で名刺交換を行うのももちろんありですし、ルーツに立ち返ってセピアな写真名刺にするのもあり。家紋を入れてみたり、竹簡をイメージした背景画で名刺をデザインしたりするのも面白いかもしれないですよね。
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